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開港記念行事

顕彰者一覧(海外貿易)

末次平蔵

すえつぐ へいぞう(生年不詳~1630)

末次家初代平蔵(名政直)は、筑前国(福岡県)博多の豪商末次興善の次男として生まれ、元亀2年(1571)の開港後、長崎に移住した。徳川家康から朱印状を交付され、ルソンやタイ、台湾などで貿易を行った。長崎代官村山等安の不正を幕府に告発、元和5年(1619)等安が処刑されると、代わって長崎代官に任じられた。以後、末次家は4代平蔵茂朝が延宝4年(1676)密貿易に関与したとして流罪に処せられるまで、約60年にわたって長崎代官を勤めた。末次家の墓地は春徳寺(夫婦川町)にある。

船本弥七郎

ふなもと やしちろう(生没年不詳)

船本弥七郎(名顯定)は、朱印船貿易商としてベトナムをはじめ東南アジアの各地に渡航した。その詳細は不明であるが、相国寺(京都府京都市)には慶長9年(1604)船本弥七郎名の徳川家康朱印状(1通)が所蔵され、重要文化財に指定されている。弥七郎の跡は、養子の弥平次茂久が相続、糸割符年寄などを勤めたが、3代順次郎以降は、長崎会所の請払役を勤め、幕末維新に至った。

後藤宗印

ごとう そういん(生年不詳~1627)

後藤宗印(名貞之、通称庄右衛門)は、武雄(佐賀県武雄市)領主後藤氏の一族で、開港前後に長崎に移住、頭人となり、文禄元年(1592)豊臣秀吉から町年寄に任じられた。かたわら朱印船貿易に従事、ボルネオやシャム宛の朱印状を交付されている。キリシタン(洗礼名はトメ)としても活動、島原町(万才町)の自宅に印刷所を設け、イエズス会の委託のもと『おらしょの翻訳』などキリシタン版を印刷した。後藤家は、宗印以降も町年寄を勤め、幕末維新に至った。墓は晧台寺(寺町)の後藤家墓地にある(市指定史跡)。

高木作右衛門

たかき さくえもん(生年不詳~1629)

高木作右衛門(名忠雄、号了可)は、肥前高木(佐賀県多久市)の豪族の一族で、開港前後の長崎に移住、頭人となり、文禄元年(1592)豊臣秀吉から町年寄に任じられた。かたわら2代忠次とともに朱印船貿易に従事、マロク(モルッカ諸島)宛の朱印状を交付されている。以後も高木家は、町年寄を勤めたが、3代宗能からは御用物役を兼任、さらに8代忠与以降は、長崎代官兼御用物役に任じられ、幕末維新に至った。墓は晧台寺(寺町)の高木家墓地にある。

荒木宗太郎

あらき そうたろう(生年不詳~1636)

荒木宗太郎(名一清)は、肥後国(熊本県)に生まれ、天正16年(1588)長崎に移住、浦上村飽ノ浦郷(飽の浦町)に本拠を構えた。慶長11年(1606)以降、徳川家康の朱印状を交付され、タイやベトナムで貿易を行った。宗太郎は、安南(ベトナム)国王の一族(ゲン)氏の信任を得て、その娘わかくを妻とした。わかくは、長崎の人たちに「アニオーさん(姫様)」と呼ばれ、その豪華な輿入れの様子は、長崎くんちの奉納踊にも取り入れられた。荒木家は、元禄3年(1690)以降、西築町(築町)の乙名を代々勤め、幕末維新に至った。墓は大音寺(鍛冶屋町)の荒木家墓地にある(市指定史跡)。