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開港記念行事

顕彰者一覧(医学)

栗崎道喜

くりさき どうき(生年不詳~1652)

栗崎道喜(名正元)は、肥後国栗崎村(熊本県宇土市)に生まれ、幼時、長崎に移住した。その後、ルソン(フィリピン)に渡航、西洋外科医術を修得。帰国後、本鍛冶屋町(万屋町)で開業、南蛮外科栗崎流の開祖となり、特に(きん)(そう)(刀などの切り疵)の治療で知られた。以後、栗崎家は、唐人屋敷などの外科医を勤めた。墓地は深崇寺(寺町)と晧台寺(寺町)にある。その4代栗崎正羽(号道有・1660~1726)も南蛮流医術を修め、幕府の医官(御番外科・知行200石)となり、元禄14年(1701)には江戸城内において負傷した吉良上野介の治療に当った。

杉本忠恵

すぎもと ちゅうけい(1618~89)

杉本忠恵(名忠意、元政)は、長崎で転び伴天連沢野忠庵(フェレイラ)に外科医術を学び、南蛮外科医として名を知られた。忠恵は忠庵の女婿という。寛文6年(1666)4代将軍家綱に拝謁、同10年(1670)には幕府の最初の洋方医となり、扶持米200俵を支給された。後に侍医に進み、法眼(四位相当)に叙せられた。延宝6年(1678)には京都で後水尾天皇の中宮東福門院(徳川和子)の治療に当たった。天和3年(1683)退役。杉本家は、忠恵以降も幕府に代々医官として仕えた。

西玄甫

にし げんぽ(生年不詳~1684)

西玄甫(通称吉兵衛)は、阿蘭陀通詞西家(吉兵衛系)の初代吉兵衛の子として生まれる。承応2年(1653)大通詞になったが、寛文9年(1669)退役。南蛮外科を転び伴天連沢野忠庵(フェレイラ)に、紅毛外科を出島のオランダ商館医に学び、南蛮・紅毛を併せたその医術は、西流外科と呼ばれた。延宝元年(1673)玄甫と改名、幕府の外科医官になり、参勤通詞目付を兼ねた。著書に向井元升と忠庵訳の天文書を和解した『乾坤弁説』や唐通事頴川藤左衞門との共著『諸国土産書』がある。

西松逕

にし しょうけい(1602~1728)

西松逕(名喜盛、号寿仙院)は、加藤清正の侍医西宗璠の子として熊本に生まれたが、加藤家の改易後、長崎に移住した。寛文11年(1671)長崎奉行牛込忠左衛門の時に御用医師に任じられ、長崎奉行所で治療に当たった。名医の誉れは高く、貞享3年(1686)霊元天皇より法橋(五位相当)に、元禄3年(1690)東山天皇より法眼(四位相当)に叙せられた。126歳で死没。墓は、観善寺(玉園町)の江上家・西家墓地にある。西家は、松逕以降も御用医師を勤め、幕末維新に至った。

頴川入徳

えがわ にっとく(1596~1674)

頴川入徳(本姓陳、名明徳)は、中国浙江省杭州府(杭州市)に生まれる。若くして儒学を学び、さらには医術を修め、慶安年間(1648~52)に渡来、医術を業とした。中国での戦乱を憂い、帰国を断念、投化(帰化)後は頴川入徳と称した。早くから小浜温泉の効能に着目、湯治の普及に努めた。著書に『心医録』がある。春徳寺(夫婦川町)に頴川入徳医翁碑が、伝明寺(雲仙市)に入徳師翁碑がある。

北山道長

きたやま どうちょう(生年不詳~1701)

北山道長(号寿庵)は、()栄宇の子として長崎に生まれる。栄宇は、中国福建省福州府長楽県(長楽市)の生まれで、住宅唐人であった。道長は、黄檗僧独立らについて医術を修め、名医と称された。尾張藩(愛知県)藩主徳川家や小倉藩(福岡県)藩主小笠原家の招請を断り、大坂(大阪市)で開業、貧富を問わず治療、名医の誉れを不動のものとした。著書に『医方考縄愆』『増広医方口訣集』などがある。墓は太平寺(大阪府大阪市)と崇福寺(鍛冶屋町)の中山家墓地にある。

楢林新吾兵衛

ならばやし しんごべえ(1648~1711)

楢林新吾兵衛(名時敏、号鎮山)は、楢林三郎兵衛の子として生まれる。幼時よりオランダ語を学び、18歳で小通詞になった。オランダ商館長の江戸参府に8回随行、延宝元年(1673)イギリス船リターン号が来航した際には小通詞として交渉に当たった。貞享3年(1686)大通詞に昇進したが、元禄11年(1698)閉門を命じられた。その後、剃髪、名を栄休と改め、外科医に専念、楢林流外科の開祖となった。著書に宝永3年(1706)パレの外科書をもとに著述した『紅夷外科宗伝』がある。墓は聖徳寺(銭座町)の楢林家墓地にある。

楢林宗建

ならばやし そうけん(1802~52)

楢林宗建(名潜、号和山)は、佐賀藩医楢林栄哲の次男として長崎に生まれる。オランダ商館医シーボルトに医学を学んだ。文政10年(1827)父の跡を継いで佐賀藩の長崎居住藩主御側医格になり、海外情報の収集にも当たった。藩主鍋島直正の命によりオランダ商館医モーニッケと相談、嘉永2年(1849)牛痘痂皮(かひ)(かさぶた)をバタヴィアから取り寄せ、三男建三郎に接種したところ成功した。これがわが国最初の牛痘法による種痘で、以後、種痘は全国に普及、多くの人々を病魔から救うことができた。墓は聖徳寺(銭座町)の楢林家墓地にある。