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開港記念行事

顕彰者一覧(儒学)

北島雪山

きたじま せつざん(1636~97)

北島雪山(名三立、号花隠)は、熊本藩医北島宗宅の子として生まれる。長崎で陽明学を学び、かたわら黄檗僧独立や即非について書を修め、以後、長崎に居住した。趙子昂らについて明代の書を修め、わが国の書道界に新風を吹き込んだ。その後、江戸の儒官林羅山の子春斎らと交友、細井広沢に書を指導した。後年、その書の評価が高まり唐様書家の元祖と称された。

南部草寿

なんぶ そうじゅ(生年不詳~1688)

南部草寿(字子寿、号陸沈軒)は、京都に生まれ、木下順庵について儒学を修めた。長崎奉行牛込忠左衛門の招聘に応じ、寛文3年(1663)の大火で焼失した立山書院(向井元升が開創)の再興に尽力、衰退していた儒学を再び興隆に導いた。延宝8年(1680)帰京、その後は富山藩(富山県富山市)2代藩主前田正甫(10万石)に学者として仕え、150石を支給された。西川如見、福山徳潤、今井弘済らは門人。著書に『職原抄諺解』などがある。

高玄岱

こう げんたい(1649~1722)

高玄岱(字子新、斗瞻、号天漪)は、高大誦(一覽(いちらん))の子として長崎に生まれる。祖父高寿覚は、渤海(中国東北部)の生まれで、中国福建省漳州府(漳州市)に居住、父高大誦は、住宅唐人となり、深見久兵衞と称した。玄岱は、黄檗僧独立について医術と書を修めた。特に書は流麗な草書で知られ、林道栄とともに長崎の二妙と称された。後に新井白石の推挙により幕府の儒員に任じられた。著書に『養生編』『七家唱和集』などがある。

向井元成

むかい げんせい(1656~1727)

向井元成(号鳳梧斎)は、向井元升の子、去来の弟として後興善町(興善町)に生まれる。諸国で修行後、長崎に帰り、南部草寿の後任として東上町(上町)の立山書院の祭酒に任じられた。貞享2年(1685)舶載された『(かん)(ゆう)(せん)』にキリスト教関係の記述を発見、その功で書物改役に任じられた。正徳元年(1711)立山書院は、規模を大きくして伊勢町に移設され、長崎聖堂と改称された。以後も向井家は、長崎聖堂の祭酒と書物改役を世襲、幕末維新に至った。墓は晧台寺(寺町)の向井家墓地にある(市指定史跡)。

南部南山

なんぶ なんざん(1658~1712)

南部南山(名景衡、通称平右衛門、号還翠園)は、医師小野昌碩の子として生まれる。小林謙貞や盧草拙に育てられ、南部草寿の養子となった。中国人黄公溥や同謝叔且について詩文を、安東省庵や木下順庵について儒学を修めた。草寿の跡を相続、富山藩(富山県富山市)2代藩主前田正甫に学者として仕え、150石を支給された。著書に詩文集『喚起漫草』がある。南山の跡は、長男景春が相続、正甫に仕え200石を支給されたが、享保2年(1717)死没、南部家は断絶した。

中野撝謙

なかの きけん(1667~1720)

中野撝謙(名継善、通称善助)は、長崎に生まれる。唐通事林道栄について書や文章を学び、さらに経学(経済学)を修め、下総関宿藩(千葉県野田市)藩主牧野成貞(2万石)に学者として仕えた。同家に5代将軍綱吉の御成(訪問)があると、綱吉に経学等について講義、その学識を高く評価された。

盧草拙

ろ そうせつ(1675~1729)

盧草拙(名元敏、通称元右衛門、号葆真)は、盧家の4代で、3代草碩の子として生まれる。天文学を小林謙貞の門人関庄三郎に、詩文を彭城宣義らに学び、大江宏隆とも交友した。正徳3年(1713)長崎聖堂の学頭となり、享保元年(1716)書物改添役に任じられた。享保4年(1719)8代将軍吉宗の命により西川如見と江戸に上り、天文学や暦学に関する質問に答え、褒美を賜った。著書に『長崎先民伝』がある。西山神社(西山本町)は、草拙が自身の地所に妙見神を祀ったのが最初であった。

長川東洲

ながかわ とうしゅう(1813~74)

長川東洲(名煕、通称退蔵、号竹院)は、田代得寿の子で、長川輔仁の養子となる。長川家は、始祖宗四郎から11代幹二まで書物目利を勤めた。東洲も書物目利、さらには長崎聖堂明倫堂の助教となった。かたわら天保9年(1838)に開いた西山塾は、明治5年(1872)の学制改革で閉塾となったが、その間の塾生はのべの2000人余り、名村泰蔵、何礼之、伊東巳代治、福地源一郎らが学んでいる。その後、東京に移住、同地で死没した。著書に『教義策題』『国史論纂評点』などがある。墓誌は清源寺(東京都新宿区)にある。