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開港記念行事

顕彰者一覧(美術)

喜多元規

きた げんき(生没年不詳)

喜多元規は、その伝記の詳細は不詳であるが、喜多長兵衞道矩(どうく)の門人で、隠元や木庵、即非を中心に唐僧、和僧、檀越の画像を描き、黄檗画派と呼ばれた画風を確立した。作画期間は約40年、現在、約200点の作品が確認されているが、この3倍以上の作品を制作したと推測される。元規風の画家として元喬、元真、元貞などが知られるが、18世紀の後半以降、同画派は衰退した。

渡辺秀石

わたなべ しゅうせき(1641~1709)

渡辺秀石(号仁寿斎、烟霞比丘)は、興福寺の3代住職逸然性融について漢画の画法を修めた。元禄10年(1697)新設された唐絵目利に任じられ、長崎漢画の開祖と称された。渡辺家は、初代秀石以降、6代にわたって唐絵目利を勤め、幕末維新に至った。墓は深崇寺(寺町)の渡辺家墓地にある。

熊斐

ゆう ひ(1712~71)

熊斐(姓神代(くましろ)、通称甚左衞門、号繍江)は、唐通事神代家に生まれる。神代家の祖は(ゆう)姓の中国人で、同家は代々唐通事を勤めた。熊斐も甚左衞門の名で唐通事を勤め、内通事小頭、さらには稽古通事に任じられた。かたわら渡辺派の画法を修めるなど画家でもあった。享保16年(1731)沈南蘋が来航すると、その画法を学ぶことを許され、さらにはその画法を全国に広めたので、わが国南蘋派の開祖と称された。墓は崇福寺(鍜冶屋町)の神代家墓地にある。

鉄翁祖門

てつおう そもん(1791~1871)

鉄翁祖門(号妙言、蓮舟子)は、銀屋町の日高勘左衛門の子として生まれたが、父の没後、臨済宗春徳寺(夫婦川町)の僧となった。文政3年(1820)14代住職となり、その在職は嘉永3年(1850)まで31年に及んだ。初め石崎融思に漢画を学んだが、来舶清人(こう)稼圃(かほ)について南画を修め、山水図や四君子図、なかでも蘭図を得意としたので、「蘭の鉄翁」と称された。木下逸雲、三浦梧門とともに長崎南画を大成、長崎三画人と称された。墓は春徳寺(夫婦川町)の住職墓地にある。

木下逸雲

きのした いつうん(1799~1866)

木下逸雲(名相宰、通称志賀之助、号養竹山人)は、八幡町の乙名を代々勤めた木下家に生まれ、逸雲も同町乙名を勤めた。初め石崎融思について漢画の画法を学んだが、ほかにも南画や大和絵などの画法も修めた。特に南画は、来舶清人江稼圃についてその画法を修め、長崎南画を大成、鉄翁祖門、三浦梧門とともに長崎三画人と称された。墓は禅林寺(寺町)の木下家墓地にある。