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開港記念行事

顕彰者一覧(蘭学)

本木庄太夫

もとき しょうだゆう(1628~97)

本木庄太夫(名栄久、号良意)は、平戸に生まれ、万治2年(1659)長崎に移住、阿蘭陀通詞になり、寛文4年(1664)小通詞、寛文8年(1668)大通詞になった。オランダ商館長の江戸参府に9回随行し、天和2年(1682)の参府の際は5代将軍綱吉の子徳松に請われ、阿蘭陀舞を披露、葵紋の弓を賜った。元禄8年(1695)通詞目付に昇進。オランダ商館医から豊富な医学知識を得て医学にも詳しかった。ドイツ人レムメリンの解剖書を翻訳した『和蘭(オランダ)全躯内外分合図』は、没後刊行された。墓は大光寺(鍛冶屋町)の本木家墓地にある。

西善三郎

にし ぜんざぶろう(生年不詳~1768)

西善三郎は、阿蘭陀通詞西家(善左衞門系)の2代善右衛門の子として生まれる。享保18年(1733)に口稽古に任じられ、元文元年(1736)稽古通詞、同4年(1739)小通詞末席になり、別家となった。延享3年(1746)本家(父跡)相続、同4年(1747)小通詞、宝暦4年(1754)には大通詞になった。この間、年番通詞を5回、江戸番通詞を6回勤めた。晩年、マリーンの『蘭仏・仏蘭大辞典』を翻訳、蘭和辞書の編さんを行ったが、明和5年(1768)善三郎の死没により未完に終わった。

吉雄幸左衛門

よしお こうざえもん(1724~1800)

吉雄幸左衛門(名永章、幸作、号耕牛)は、阿蘭陀通詞吉雄藤三郎の子として生まれる。元文2年(1737)稽古通詞になり、以後も小通詞、さらには大通詞になるなど、53年間も阿蘭陀通詞を勤めた。そのかたわら天文学や医学・本草学などをオランダ商館員から学んだ。特にオランダ商館医からは外科医術を学び、吉雄流外科と呼ばれる一派を創始、多くの門人を育成した。杉田玄白、前野良沢、平賀源内ら蘭学者とも交流、安永3年(1774)玄白らが出版した『解体新書』に序文を寄せている。墓は禅林寺(寺町)の吉雄家墓地にある。

本木仁太夫

もとき にだゆう(1735~94)

本木仁太夫(名良永、号蘭皐)は、御用医師西松仙の子として生まれたが、阿蘭陀通詞本木良固の養子になり、天明8年(1788)に小通詞、翌年、大通詞に昇進した。かたわら多くのオランダ語の書物を翻訳、安永3年(1774)『天地二球用法』でコペルニクスの太陽中心説(地動説)をわが国で初めて紹介した。その後、老中松平定信の命によりイギリス人アダムスの蘭訳本を翻訳した『太陽窮理了解』で、地動説をさらに詳しく解説した。「惑星」「恒星」「彗星」などの天文用語は、仁太夫の造語である。墓は大光寺(鍛冶屋町)の本木家墓地にある。

志筑忠雄

しづき ただお(1760~1806)

志筑忠雄(通称忠次郎、号柳圃)は、長崎の商家中野家に生まれ、阿蘭陀通詞志筑家の養子となる。安永5年(1776)稽古通詞になったが退役。退役後は本木仁太夫に師事、蘭書の翻訳と研究に没頭、その著作は40冊を超える。イギリスの物理学書を抄訳した『暦象新書』では地動説やニュートン力学などを紹介解説した。オランダ商館医を務めたケンペルの『日本誌』から『鎖国論』を翻訳した。オランダ語(文法)の研究にも打ち込み、「動詞」「代名詞」の品詞名、「現在」「過去」「未来」の時制名を造語した。

中山作三郎

なかやま さくさぶろう(1785~1844)

中山作三郎(名武徳、通称得十郎)は、阿蘭陀通詞中山唯八の子として生まれる。寛政10年(1798)稽古通詞、文化13年(1816)小通詞助、天保元年(1830)には大通詞に昇進した。文化13年、和蘭辞書翻訳認方掛を命じられ、オランダ商館長ドゥーフが始めた蘭和辞書『ヅーフ・ハルマ(長崎ハルマ)』の編さん事業に従事、吉雄権之助らとともに中心的存在として、天保4年(1833)の増訂作業(第三稿)まで携わった。かたわら江戸参府にも数回にわたり随行した。墓は大音寺(鍛冶屋町)の中山家墓地にある(市指定史跡)。

末次忠助

すえつぐ ただすけ(1765~1838)

末次忠助(名忠正、号独笑)は、町乙名末次家に生まれる。同家は末次平蔵の後裔という。後興善町乙名、さらには総町乙名頭取、出島乙名などを勤めた。吉雄権之助や馬場佐十郎らと並び称される志筑忠雄の高弟で、特に天文学、数学、物理学などに詳しかった。蘭学者達にもその名を広く知られ、美馬順三もその門下であった。洋式砲術にも精通しており、熊本藩士池辺啓太は、13回も長崎を訪れ、砲術を学び、その奥義を伝授されたという。

美馬順三

みま じゅんぞう(1795~1825)

美馬順三(名茂親、号如柳)は、阿波国羽浦(徳島県阿南市)の美馬与三右衛門の四男として生まれる。京都を経て長崎に遊学、中山作三郎や吉雄権之助のもとで蘭学を学んだ。作三郎の尽力で出島への出入りを許され、文政6年(1823)来日したシーボルトに入門、その才をもって鳴滝塾の塾頭となった。オランダ語に堪能で、シーボルトの日本研究に大いに貢献したが、文政8年(1825)当時流行していたコレラに感染、病没した。31歳であった。墓は大音寺(鍛冶屋町)の中山家墓地(市指定史跡)と阿南市羽ノ浦町にある。

二宮敬作

にのみや けいさく(1804~62)

二宮敬作(号如山)は、伊予国宇和郡磯崎浦(愛媛県八幡浜市)に生まれる。文政6年(1823)来日したシーボルトに医学を学び、文政9年(1826)江戸参府に随行するシーボルトに同行した。文政11年(1828)のシーボルト事件に連座、同13年(1830)長崎払(追放)に処せられた。帰郷後は外科・種痘医として開業、後に宇和島藩藩医になった。シーボルトの帰国後は、その娘いねを養育した。安政3年(1856)シーボルトの再来日に備えて長崎で開業、同6年(1859)その再会を果した。墓は晧台寺(寺町)の楠本家墓地にある。