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開港記念行事

顕彰者一覧(外国人)

隠元隆琦

いんげん りゅうき(1592~1673)

隠元隆琦(俗姓林、名曽昺)は、中国福建省福州府福清県(福清市)に生まれる。28歳の時に万福寺(福清市)で出家、41歳の時に費隠通容に嗣法、その後、万福寺や龍泉寺(福建省長楽市)などの住職となり、順治3年(1646)再度、万福寺の住職となった。承応3年(1654)都合4回に及んだ興福寺(寺町)3代住職逸然の招請に応じ渡来、興福寺の住職となり、明暦元年(1655)には崇福寺(鍛冶屋町)の住職となった。さらに寛文元年(1661)開創された万福寺(京都府宇治市)の開山となり、わが国黄檗宗興隆の基礎を確立した。墓は万福寺に寿蔵(重要文化財)があり、崇福寺(鍛冶屋町)には髪寿塔(市指定史跡)がある。

独立性易

どくりゅう しょうえき(1596~1672)

独立性易(俗姓戴、名曼公)は、中国浙江省杭州府(杭州市)に生まれる。医術を修め、承応2年(1653)渡来、同3年(1654)隠元について僧となった。寛文4年(1664)以降、岩国藩(山口県岩国市)藩主吉川広嘉を度々診察、そのなかで錦帯橋の石造アーチ橋の技術による架設を進言している。博学多才で、詩文で知られたが、草書、隷書、篆書を得意とする書家で、篆刻家でもあり、高玄岱と北島雪山はその門人であった。墓は万福寺(京都府宇治市)にある。

逸然性融

いつねん しょうゆう(1601~68)

逸然性融(俗姓李)は、中国浙江省杭州府銭塘県(杭州市)に生まれる。正保元年(1644)薬種商として渡来、後に黙子如定について僧となり、興福寺(寺町)3代住職となった。隠元を招請すること4度、承応3年(1654)ついにその渡来を実現させた。逸然は、仏画や高徳画を得意としたが、その画法は漢画と呼ばれ、門人渡辺秀石らによって大成され、長崎画壇の主流となった。墓は興福寺の住職墓地にある(市指定史跡)。

木庵性瑫

もくあん しょうとう(1611~84)

木庵性瑫(俗姓呉)は、中国福建省泉州府晋江県(泉州市)に生まれる。若くして僧となり、隠元について嗣法、明暦元年(1655)隠元の命で渡来、福済寺(筑後町)の開法開山となった。以後、隠元の万福寺(京都府宇治市)開創に尽力、寛文元年(1661)の万福寺開創、同3年(1663)隠元の祝国開堂(黄檗宗の開立)を指揮した。同4年(1664)隠元の隠居後、万福寺2代住職となり、以後17年間在職、黄檗宗の興隆を盤石なものとした。墓は万福寺の万寿院にある。

即非如一

そくひ にょいつ(1616~71)

即非如一(俗姓林)は、中国福建省福州府福清県(福清市)に生まれる。若くして僧となり、隠元について嗣法、明暦3年(1657)隠元の命により渡来、崇福寺(鍜冶屋町)の開法開山となった。寛文3年(1663)隠元に面会、帰国するつもりであったが、小倉藩(福岡県北九州市)初代藩主小笠原忠真に懇請され、福聚寺(北九州市)の開山となった。4年の在職後、崇福寺にもどり隠居、帰国できないまま病没した。隠元、木庵、即非の書は、隠木即と呼ばれ,特に珍重された。墓は福聚寺と崇福寺にある(市指定史跡)。

范道生

はん どうせい(1635~70)

范道生は、中国福建省泉州府安平県(泉州市)に生まれる。万治3年(1660)福済寺(筑後町)に招かれ、福済寺や興福寺(寺町)などの仏像を製作した。寛文3年(1663)万福寺(京都府宇治市)に招かれ、約4年間、観音大士像や十八羅漢像などの製作に当たった。一旦帰国、寛文10年(1670)再度渡来したが、新来唐人として上陸が許されず、その許可を待つ船中で病没した。墓は崇福寺(鍜冶屋町)にある(市指定史跡)。

千呆性侒

せんがい しょうあん(1636~1705)

千呆性侒(俗姓陳)は、中国福建省福州府長楽県(長楽市)に生まれる。即非について僧となり、明暦3年(1657)即非の渡来に随行、さらに嗣法、その隠居後、崇福寺(鍛冶屋町)2代住職となり、さらに万福寺(京都府宇治市)の6代住職となった。崇福寺住職時の天和2年(1682)飢饉で米穀が高騰、施粥を行うため大釜(市指定有形文化財)を鍜冶屋町の鋳物師阿山弥兵衞に製造させた。同大釜は、1度に4石2斗(約630㎏)分の粥が炊け、多くの人々を救済した。墓は崇福寺にある(市指定史跡)。

伊孚九

い ふきゅう(1698~没年不詳)

伊孚九(名海、号莘野、養竹軒)は、中国浙江省呉興県(湖州市)に生まれる。孚九が南京船主(代理)として初めて長崎に来航したのは、享保5年(1720)のことで、幕府御用の中国産牡馬2頭を舶載した。以後もしばしば来航、詩文や南画に優れ、わが国の文人らと交遊した。孚九の描く南画は、長崎では清水伯民に、京坂では祇園南海や池大雅らに高く評価され、以後のわが国の画壇に大きな影響を与えた。

陳振先

ちん しんせん(生没年不詳)

陳振先は、中国の漢方医。享保6年(1721)6月、南京船にて来航した。山野にて採集した薬草162種の効能について解説、これを長崎聖堂祭酒向井元成が筆記、『陳振先採薬録』と題して編さんした。

沈燓庵

しん はんあん(1673~没年不詳)

沈燓庵(名丙)は、中国浙江省杭州府(杭州市)出身の儒学者。享保12年(1727)来航、この時55歳、最初、唐人屋敷に滞在したが、後に長崎奉行の命で外浦町(万才町)の唐通事(風説添役)二木(にき)幸三郎宅に滞在(御預)、同16年(1731)帰国した。燓庵は長崎の儒学者や唐通事とも交友、盧草拙が執筆、子の千里が編さん、文政2年(1819)刊行された『長崎先民伝』に序文を寄せている。

沈南蘋

しん なんぴん(生没年不詳)

沈南蘋(名銓)は、中国浙江省呉興県双林鎮(湖州市)に生まれる。享保16年(1731)幕府に招かれ、長崎に来航、同18年(1733)に帰国するまで唐人屋敷に滞在、幕府の依頼で絵を描いた。南蘋の画風は、緻密な写生と濃厚な彩色にあり、南蘋派と呼ばれた。その画法は、唐通事で、熊斐と称した画家神代甚左衞門に伝授され、甚左衞門によって全国に広められ、わが国の画壇に大きな影響を与えた。

宋紫岩

そう しがん(生年不詳~1760)

宋紫岩(名岳、号石耕)は、中国浙江省呉興県(湖州市)に生まれる。宝暦8年(1758)来航、多くの画人に影響を与えたが、特に江戸の画家楠本雪渓は、長崎で紫岩について画法を学び、ついには宋紫石と改名、江戸に紫岩の画法を広めた。墓は興福寺(寺町)の唐人墓地にある。

ヴァリニャーノ

(1539~1606)

ヴァリニャーノ(アレッサンドロ・ヴァリニャーノ)は、イタリアのナポリ王国の貴族の家に生まれる。1566年イエズス会に入会、1570年に司祭となり、その3年後には自ら志願して東インド巡察使に任じられ、インド、中国、日本の布教の基礎を築いた。日本には天正7年(1579)、同18年(1590)、慶長3年(1598)と3回来日。この間、日本人聖職者の養成、天正遣欧少年使節の派遣、キリシタン版の出版などを行うとともに日本の文化、習俗を尊重するように布教方針を改め、日本での布教に多大な功績を残したが、マカオで死没した。

ケンペル

(1651~1716)

ケンペル(エンゲルベルト・ケンペル)は、ドイツのリッペ伯爵領レムゴーに牧師の子として生まれる。元禄3年(1690)オランダ商館医として来日、同5年(1692)10月まで滞在した。この間2回にわたって商館長の江戸参府に随行し、日本の歴史、社会、風俗、政治、宗教、動植物などを記録、自らスケッチも行った。没後、その遺稿『日本誌』はヨーロッパ各国で出版され、当時のヨーロッパにおける日本研究の源となった。その付録論文は『鎖国論』として志筑忠雄によって翻訳、紹介され、日本の思想界にも影響を与えた。

ツュンベリー

(1743~1828)

ツュンベリー(カール・ペーター・ツュンベリー)は、スウェーデンのヨンショーピングに生まれる。ウプサラ大学の教授リンネのもとで医学と植物学を修め、 安永4年(1775)オランダ商館医として来日、1年余り滞在した。その間、オランダ商館長の江戸参府に随行、桂川甫周や中川淳庵ら蘭学者と交流した。帰国後はウプサラ大学の教授、さらには学長になった。日本から持ち帰った植物標本を整理、『フローラ・ヤポニカ(『日本植物誌』)1784年刊』として出版した際、これらの植物に初めて学名を付けるなど、わが国植物学の近代化に貢献した。

ティツィング

(1745~1812)

ティツィング(イザーク・ティツィング)は、オランダのアムステルダムに生まれる。医学と法学を修めた後、オランダ東インド会社に入り、安永8年(1779)から天明4年(1784)の間に3回(合計約3年半)オランダ商館長を務めた。その間2回江戸に参府したほか、阿蘭陀通詞から積極的に日本の情報を収集した。福知山藩(京都府)藩主朽木昌綱や鹿児島藩藩主島津重豪ら大名、さらには桂川甫周や中川淳庵ら蘭学者とも交流を深め、その交流は帰国後も続いた。帰国後は日本関係の研究に専念、フランスのパリで死没。著書に『日本風俗図誌』(1822年刊)などがある。

ドゥーフ

(1777~1835)

ドゥーフ(ヘンドリック・ドゥーフ)は、オランダのアムステルダムに生まれる。寛政11年(1799)に来日、享和3年(1803)から文化14年(1817)までオランダ商館長を務めた。在任中フェートン号事件など度重なる危機を適切に回避して幕府の信頼を得た。文化13年(1816)阿蘭陀通詞達と協同してわが国最初の蘭和辞書『ヅーフ・ハルマ(長崎ハルマ)』の編さんを行うなど日蘭交流に尽力した。長崎の遊女(うり)生野(うの)との間に生まれた男子道富丈吉(行年17歳)の墓が晧台寺(寺町)にある。

ブロンホフ

(1779~1853)

ブロンホフ(ヤン・コック・ブロンホフ)は、オランダのアムステルダムに生まれる。文化6年(1809)出島に着任、荷倉役を務めるとともに阿蘭陀通詞に英語を指導、わが国最初の英和対訳辞書『諳厄利亜語林大成』を編さんした。文化10年(1813)にイギリスがオランダ商館の接収を迫ると、折衝のためバタビアに赴いたが捕虜となった。オランダの独立後にドゥーフの後任商館長として再来日、文化14年(1817)から文政6年(1823)まで在職した。商館長着任の際に伴った家族は、初めて見る西洋の女性と長崎の人たちの評判となったが、その後、家族は国外退去となった。

シーボルト

(1796~1866)

シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザル・フォン・シーボルト)は、南ドイツのシーボルト家に生まれる。同家は代々医学者の家系であった。文政6年 (1823)オランダ商館医として来日、その翌年、鳴滝に塾を開き、高野長英や美馬順三ら門人に西洋医学と一般科学を教授した。オランダ商館長の江戸参府に随行、日本に関する様々な研究資料を収集した。文政11年(1828)の帰国に際、その荷物に日本の地図など禁制品があることが露顕(シーボルト事件)、翌年、日本から追放された。開国後の安政6年(1859)年再来日したが、文久2年(1862)帰国、ミュンヘンで死没した。著書に『日本』『日本植物誌』『日本動物誌』がある。

モーニッケ

(1814~87)

モーニッケ(オットー・ゴットリープ・モーニッケ)は、ドイツのシュトラールズント出身のオランダ陸軍軍医。嘉永元年(1848)オランダ商館医として来日。聴診器を初めて紹介、気象観測を出島で行った。来日に際して佐賀藩藩主鍋島直正の要請により持参した牛痘苗は失活しており接種は失敗したが、翌年、佐賀藩医楢林宗建の要請でバタビア(ジャカルタ)から取り寄せた牛痘痂皮で接種に成功した。以後、種痘が日本各地に普及して行った。嘉永4年(1851)帰国した。

ポンペ

(1829~1908)

ポンペ(ヨハネス・リディウス・カタリヌス・ポンペ・ファン・メールデルフォルト)は、南オランダ(ベルギー)のブルュージュに生まれる。ユトレヒト陸軍軍医学校で医学を学び、安政4年(1857)第2次海軍伝習隊の一員として来日した。同年9月26日(1857年11月12日)から長崎奉行所西役所内に設けられた医学伝習所において松本良順ら14名に医学の講義を始めた。現在、この11月12日は長崎大学医学部の創立日となっている。文久元年(1861)にはわが国最初の洋式病院小島養生所で、身分、貧富に関わらず治療を行うとともに併設された医学校では、将来のわが国の医学を担う医師を育成した。この間、種痘の普及やコレラの治療にも尽力、文久2年(1862)11月に帰国した。

フルベッキ

(1830~98)

フルベッキ(ギド・フリドリン・フルベッキ)は、オランダのユトレヒトに生まれる。工業学校で建築を学び、22歳で渡米。コレラの罹患をきっかけに宣教師となり、安政6年(1859)アメリカのオランダ改革派教会から日本に派遣された。長崎奉行所管轄の済美館や佐賀藩藩校致遠館で教鞭をとり、大隈重信や副島種臣ら多くの若者を教育した。明治2年(1869)政府から東京に招聘され、大学南校(後の東京大学)の頭取および政府の顧問となり、岩倉使節団の派遣など多くの施策を進言した。退職後は伝道に専念し、ヘボンらとともに現在の明治学院大学(東京都港区)の創設にも関与した。