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開港記念行事

顕彰者一覧(国文学)

青木永弘

あおき ながひろ(1656~1724)

青木永弘は、長崎の諏訪神社の社家青木永清の子として生まれる。若い頃から京都の吉田家で神道や国学を修めた。諏訪神社神主青木永安と反目、再び上京、以後は各地の名山や古跡をめぐり、かたわら神道と国学の普及に努めた。後に霊元天皇よりその業績を賞され、従六位下主計頭に叙せられたが、京都にて病没。著書に『中臣祓松風鈔』『諏訪伝記』などがある。

向井去来

むかい きょらい(1651~1704)

向井去来(名兼時、通称平次郎、号義焉子)は、儒学者で医師向井元升の子として後興善町(興善町)に生まれる。向井家は、後に家族をあげて京都に移住、去来も京都に居住した。30歳半ば頃から松尾芭蕉の門人となり、蕉門十哲の筆頭、西の俳諧奉行と称された。長崎には、叔母の簑田勝(田上尼)が居たことからしばしば帰郷、蕉風の俳諧を伝えた。市内には、薄塚(薄塚町・県指定有形文化財)、渡鳥の句碑(本河内1丁目・市指定有形文化財)、稲妻の句碑(丸山町)などがある。墓は覚円院(京都府京都市)にある

大江宏隆

おおえ ひろたか(1669~1729)

大江宏隆(名意敬、号操軒)は、長崎に生まれる。後に上京、権中納言風早実種について和歌や古典を、卜部定規について神道を修めた。晩年は田上、現在の椎ノ木町に道観(すう)(げん)(かん)を構え、真武大帝を祀り修練の場とした。崇玄観は、深見但賢が命名したもので、長崎奉行日下部丹波守博貞は、「崇玄観」を揮毫下賜している。著書に神道書『神令鈔』、和歌連歌の作法書『和歌連歌てにをは』などがある。

伊奈建彦

いな たけひこ(1777~1845)

伊奈建彦(通称帯刀)は、松森神社8代神主伊奈大学の子として生まれる。文化2年(1805)9代神主となり、弘化2年(1845)まで在職、従五位下石見守に叙せられた。かたわら本居大平(おおひら)について和歌や国学を修めた。著書に『桜園日抄』『淤曽能梯建』などがある。墓は椿原(西山本町)の伊奈家墓地にある。

近藤光輔

こんどう みつすけ(1781~1841)

近藤光輔(通称半五郎)は、長崎の近藤家に生まれる。近藤家は、長崎会所の請払役を代々勤めた家で、光輔も同役を勤めた。かたわら本居宣長、同大平、加藤景樹らについて和歌や国学を修め、短歌を最も得意とした。青木永章、中島広足とともに長崎三歌人と称され、長崎歌壇の黄金時代を築いた。家集『夜雨庵集』は甥柘植蔭夏が編集。著書に『自詠歌合』『後撰集光輔問大平答』などがある。墓は晧台寺(寺町)の近藤家墓地にある。

青木永章

あおき ながふみ(1787~1845)

青木永章(号玉園)は、京都に生まれ、諏訪神社の(はぶり)職青木家を相続したが、諏訪神社8代神主永鷹の死没により本家を相続、9代神主となった。以来、17年間神職を勤め、従五位上丹波守、大宮司に任じられた。かたわら本居大平について和歌や国学を修め、特に長歌を得意とした。近藤光輔、中島広足とともに長崎三歌人と称され、長崎歌壇の黄金時代を築いた。著書に『玉園集』『烈風記』などがある。墓は椿原(西山本町)の青木家墓地にある。

中島広足

なかしま ひろたり(1792~1864)

中島広足(名惟清、号橿園、田翁)は、熊本藩士中島家(家禄200石)に生まれる。広足も小姓役などを勤めたが、後に隠居、以後、一柳千古について和歌を、永瀬真幸について国学を修めた。文政5年(1822)頃から長崎の古町に居住、橿(かし)園舎(ぞのしゃ)を開き多くの門人を育成、かたわら青木永章や近藤光輔らと交友、その滞在は30年にも及んだ。文久元年(1861)藩命で帰藩、藩校時習館の国学師範を勤めた。著書に『橿園随筆』『橿園長歌集』などがある。